昭和40年05月20日 夜の御理解



 朝に晩にご神前に出らして頂いてから、神様に御礼を申し上げる。ご神前にて神様に特に夜の御祈念なんかは、それを実感するんですけれども、おー今日一日本当にあの、身近に、神様が私の為にお働き下さったと、という事の喜びを神様に御礼を申し上げるということ。あと、お礼が申し上げられるという事。信心をさせて頂く、私、本当の値打ちはこの辺だとこう思うんですね、お願いをしとりましたら、こげなおかげを頂きましたというんではなくですたい、いつも神様がです。
 身近にしかも、私、一人の為に、お働き下さっとるようなその実感をです、やはりあの改まって、御神前に額ずかせてもろうてから、お礼を申し上げなければおられないというような信心。そういう信心を皆さんに身に付けて頂きたいなっと、これはもう本当に、私の願いが、過ぎるのかもしれませんけれども、ここに御神縁を頂いて、信心の稽古に、卑しくも通うてみえる方ならばです。ね。
 ここの所を一つ私は目指して頂きたいと。そして、ほんなら、そういうような信心に、お互いがならして頂くためにはどういうような心の状態、持ち方、信心修行をです。さして頂いたならば、そういうような状態になれるだろうか、という所にです、皆さんが意欲をもやして頂くでなからなければ信心の楽しみというものはないと私は思う。ね。お願いをさして頂いておると、神様にお願いをさせて頂いておる。
 それが聞いてござるやら、聞いてござらんやら、それが成就するのやら、成就せんのやら、そして自分の思いの通りにならせて頂いた時には、あっ、「神様のおかげで、助かりました神様のおかげで自分の思うごとなりました」と言うて、そういうね、その、なんというですか、ポツンポツンとそのおかげていうようなものを感ずるというような程度では、私はわざわざ金光様の信心、いや、椛目にわざわざ信心の稽古に通うてくる値打ちはないと私は思う。ね。
 「先生が言われるのはここん所だろうかと」ね。私今日午後の奉仕をさせて頂く時間がいつも二時から四時迄。その二時から四時迄の間にいわゆる閑散として、ここで丁度お参りが一時間ばっかりぷっつりなかった。その一時間ばかりの間にもうとにかく、ここにこうやって座らして頂いて奉仕させて頂いておる。それからあれを思いこれ思わさせて頂いておったらもう何か知らんけれども、嗚咽がでるように有り難うなてきた。
 「あぁ有り難いこっちゃなぁ」あのねお参りがどんどん、どんどんある時も有り難いけれども、お参りがない、いわゆるポツンとここにチャーンと座らして頂いておる時は、もっとしみじみした有り難さを感じれることは有り難いね。皆さんもそうですよ。お願い通り順調にいっておるときも有り難いけれども、お願い通りも、反対の事に反対の事になっていく時にですね、しみじみとした有り難さが感じれれるようになれたら、私、本当に有り難いと思う。そうです、いつもかつもが有り難い。ね。
 私、そんな、でも、兎に角、そのただもう、理屈は抜きにしてから有り難い有り難いと、ここでお礼を申させて頂いておりましたらですね、私の心の心眼に頂くのがあのお社の扉がこう開いてるんですよ。そしてその扉がです中に何にも入っていないんです。空っぽになっとるんですよ。おやどういう事だろうかと思ったら、ね。神様がね、御理解に下さるんです。ね。もう私のそばへ神様が来てござるという事を頂く。
 だから空になってござる。ね。私が有り難い有り難いなぁ、ね。美味しいものを頂いたから有り難い、お金儲けが出けたから有り難いというのじゃなくてですたい。例えば、ここに、閑散とだけ、というならば誰もお参りがない。もう、ひっそりとしとる時にです、もう、とにかくあれを思いこれを思いさして頂きよったら有り難うしてたまらん。ね。本当にあの、声を、声を出して泣きたいごと有難い。ね。
 そうしたら私の心眼にですね。丁度、お社が空っぽのところを頂くんです。これはどうしたことだろうかと思わせて頂いたらですね、いわゆる、いうならばですたいね、御理解なんですから、ね。神様が私の側に来てござるからあちらが空になっておる。私が有り難い有り難いという時にはね。私の心の中に、私の側に、神様がここに来てござる時だと。やはりこらまた色々もう、又有り難うならせて頂いてですね。
 御理解を思うんです。ね。神が社ん中に入ったらね。この世は闇になると仰る。神様はああいう小さいお社の中に静まってござるという神様じゃないと、この神様は。神に逢いたいと思えば庭の口に出てみよと、空が神、下が神と仰る。いわば、この世の中にへんもんしてござる。もう宇宙の中に、いっぱい私共が本当いうたら、身動きもでけんくらいに神様の中にあるのであると。ね。
 いうならそれが、神徳の中にあるのである。ね。神様の御神徳の中に私共があるのではあるけれども、私共の心がです、それをキャッチしきらんのであり、側にござるという事を実感しきらんだけの事。ね。「神が社に入ったら世の中が闇になる」とこう仰る。ね。ですから、問題はです。神様がいつも、私の側に来てくださる、私の側で働いておって下さる、私の中に入って下さっておるというのです。そういう実感を「我が身は神徳の中に生かされてある」という事だとこう思うのです。ね。
 考えてごらんなさい。神徳の中に生かされているんですよと、貴方が、はく息、吸う息、それも、皆、神様のお恵みなんですよと。外を見たら風が吹いておる。ね。水道の蛇口をひねればお水が出る。マッチをこうこすれば火が燃える。もう、ここにも、そこにも実は神様の姿があるのですよと。そういう神様のお恵みなのですから、ここは、有り難う思わにゃいけませんと教えて頂いちゃ、ほんに成程、そうだなぁと、一すくいの水だって、人間の力で出きるものはないものね。私共は平気でです。
 今日あの、今、ここ二、三日、吉木の国武さんという方の奥さんが子供さん連れて毎朝御祈念に参いってくるんです。これはもう、ここに一番初めの頃、ここで御神縁を頂いた方なんですよ。まだ、そのバス通りの方が入ってきよった時分でした。夜中の事でした。表でどんどん夜中に叩く人がありますから、起きてみましたら、その国武さんが見えてるんです。ね。何か婦人病でですね。
 大出血をしてから医者も血がとまらんでこまっておる。どうぞお願いをして下さいと初めてそのまあここで人が助かっておるという話を聞かれたんです。そして夜中にお願いに見えられて、そして助かった。そうゆうような事から、奥さんも熱心にお参りをしてくるなら、ご主人も参ってきておったんですけれども、なんていうですかね。もう金光様の信心、お話を聞いておった所が、もう大体の事が分かったですね。
 教えた訳ではない。はあ、金光様の信心ちゃもう、磨き、改まれという事ばっかりかという風に、思われた。頭がなかなかいい奥さんです。それっきり参ってこん。もう十何年参ってこない。ご主人の方は一週間に一遍づつ必ず、あの、日曜日たんび必ず参ってくるんです。というように、ご主人の信心によって、細々とようやくその信心が続いておるというような状態であった。
 ところが、その肝心要のお父さんが最近具合が悪くて、丁度久富先生が奉仕をしておられる時に、本人がお願いに見えられて、病院に入院するからというてそのお届けがあったとこう。ところがその、すぐ退院されるはずのところが、どっこいそのこれは普通の病気じゃない、ただの病気じゃないと言われるようになった。もう最近では湯水も通らんようになったね。ね。
 さあそこでそのお母さんが慌てだしたんですね。はあ金光様に一丁お縋りするより他なかというわけで、丁度今日で三日朝参りして来ますで私は申しました。寿子さんて言いますもん。「寿子さんあんたが参ってくりゃおかげ頂くばの」と私は申しました。何故っていうとあんた夫婦は一心同体ちゅうじゃろうもん。いわばその半分が椛目に参って来るのじゃそれに子供まで参ってくる。子供は移り変わり連れて参って来る。ね。
 親の事は子が願い子の事は親が願い、家内の事は主人が願い、主人の事は家内が願えとこう仰る。そのいわば子供と家内が願うんで、おかげ頂かん筈がなかじゃないねと。あんたどん金光様の話はそおな、やはり十五年前に毎日毎日、参って来て聞いちゃおるけれども、ね、聞いて覚えたからそれでよいという事じゃないと信心ばっかりは。同じ様な話でもです、毎日毎日繰り返し繰り返し、頂かせて頂くという事は。
 丁度ご飯を頂く様なものであってね、もうご飯の味が分かったけんで食べんかったらどげんなるね。その味が何時もご飯の味でも変わりはしないけれども、そのご飯が美味しゅうてたまらんという時に、人間の体の上にも血や肉になって行く様にお道の信心もそうなんだ。確かに結論すると椛目のお話はさあ磨くんだ、改まるんだと有り難うならして頂く事以外にはないばい、金光様のご信心はとこう頂いているんですけれども。
 皆さんあんまりその事ばっかり頂くもんだから、まあ、磨くことやら改まる、話だけなら分かってる、それを本気で行じようとしない。だからそれが血肉にならんから、ね。何年たったっちゃ有り難うならない。「信心させて頂いておれば一年一年有り難うなってくる」とこう仰る。私共が、おかげを頂いてから、その一年一年、こう有り難うなっていくのがです、自分の心に感じれれる。  
 胸にこままってくる有難さが、もう言葉で表現出来なくなってくる。もう口に表されないというようなです、有り難さを心に頂く事が出来る感じさせて頂くことが出来るように段々なって来た。ね。ところが昨日、一昨日「その本当先生どうぞよろしゅうお願いします。明日からまた朝参りして来ますけん」ちゆうてから、参って来て、今度は昨日のお届けなんです。「先生おかげを頂ましてからです、湯水もとおらじゃかったのがです、今日は初めてお粥さんを頂ました」。
 これが昨日の朝の御理解、朝のお届けだった。同時に、その状態ですから、全然こない、眠れないというお届けがあった。湯水も通らないのである。だぁるもないと言いよった。今日、三日目、参って来てからお届けの中身はですね、「おかげを頂いてから、ご飯が本当に味が美味しゅうなってきた。そしてから、夕べからあのぐっすり、もうというようになった。有り難かね」て言うてから話した事でした。
 家内の事は主人の事は家内が一心に願う。そいで、今日善導寺から、若い娘さんが時々参ってくる。お母さんが具合が悪いから、休みついとる。それがその、最近ご飯がいけん。丁度、その後、その後に参ってきましたから私が言うんですよ。「お母さんどげな風ね」て「それがまだご飯が美味しゅうありません」「今のお話頂きよっとろうもん、とにかくね、やっぱり神様にせまるような心持ちでね、一心に。
 時々でも来たっちゃいかんばい」ね。「一心に、親の事を子供が願うという一心が届かなきゃ、交流しなければいかんよ。少し工夫しなきゃいけんよ、お参りに工夫しなきゃいけんよ」というて、その話した事でした。ね。只、参って来ただけでもいかん。やはり、もう何かしらんけれども、神様に通うような、交流するような、神様にせまるようなもの、あれがあれだけ必死に願っとるからといったようなもの。そういうものが、私はなからなければいけないとこう思うんですよね。
 私は今日ここで有り難い、有り難い、有り難いなあぁとこう思わせて頂く、そしたら神様がです、ね、私の側に来ておる、私の中に入っておられるから、お社の中が空になっとるといったような表現の意味の、御理解を頂いてです、ね、そういう実感がですいつも頂かれるような、おかげを頂いておるから、ね、そのいつも身近な働いて頂いておる。その一日が大変に御神前にどうでも、足を向けるわけにもいけんから。
 せめて、夜の御祈念の時、御神前にでらせて頂いた時にはですたい、やはり裃つけたごたる気持ちで改まって今日一日、おかげを頂いた事を、お礼いわさせて頂けれるような信心がです、私は本当の信心の値打ちじゃなかろうかと。まあそういう様なおかげを頂かせて頂いておるから、こういうおかげは皆さんでも真似からでも、もし頂きなさるようになったらどんなに有り難いことになるだろうかとこう思うんです。ね。
 そこで、私は思うんですね。ね、むつかしい御教えの言葉を持っていうならば、「我情我欲を離れよ」と仰る。そこには「わが身は神徳の中に生かされてあることが分かる」と仰っておられる。ね、そこで皆さんこういう事を一つ実行して下さい。もう、必ず、なるほど神様のおかげ、神様を身近に働いて頂く事が出来る。我情我欲を離れて、中々それは難しいことですけれども、これが分からして頂いたら、こんな有り難いことはない。我情我欲を離しておる時ぐらい有り難い事はない。
 そこでです。自分が例えば、思いを捨てるという事。ここでいうならばです。私がですたい、久保山先生をこう使おう、末永先生ばこう働いてもらおうと、家内ばこう動かそうと、子供達をこうさせようと。そういう思いを捨てるという事なんです。親がです、自分の子供だからというて、自由自在に使おうと思う。まあ、ああ、あってくれると良いと思う。ね、だから、その思いを捨てるのです。
 これが我情を捨てるということなんです。ところが、なかなかその自分の思うように、さあこうして、ああして下さいとゆうても、もうちょいとち言うちから、私の言う通りせんならもう腹が立つ。ね、子供がああしてせないけんよ、というてその、頼んでおっても、しておらないと、どうして云う事きかんかというごとなってくる。だから、例えばです、言うてもいいんですよ。こうしてこうです。
 ちょっと子供なら子供に家内なら家内に、言うてもいいけれどもですどうでも良いという気持ちでなからないかんと。これは我情を離れておる事なんです。自分の思いを捨てるという事が楽になるですね。これは素晴らしいですね。そしてですねそしてその自分の思いを捨ててから神様にお縋りをするんですお願いをするんです。そしてですね必ず自分の思うとった以上に、動いて来る様に成って来るから不思議です信心はね。
 例えば今日、夕方あの家内が私に夕食を頂いてくれとこう言う。私にちょっとお昼にお餅を頂いとったもんだから胸がつかえて頂けないのですね。けれども家内は、やっぱ夕ご飯を食べさせたいわけなんです。食べさせたいち言う訳じゃないばってん、もう食べといてもらわな、もう後がせからしかわけなんです。猫に手がいるもんじゃけん。それは実に上手に、にらめちからでも、私に食べさせようとするんですよね。私は家内にこの事を本当に一つ、分かってもらいたいと今日しみじみ思うた。
 「お父さんご飯ですよ」「俺ちょっと今日お腹がきついから頂くまい」と「あっ、そうですか」という気になったら、どんなに楽になるだろうかと言う事なんですよね。それは食べてもらわなければ困ります。ああ、せからしか、何べんもせなならん。そういう事は言いはしません。私の家内はなかなか出けとるけん、そげな事は言いはせんですもんね。こうしては「はあーそうですか」とか言うですたい。
 そりゃニコニこしてから、そんならち言うてからちいう風に例えば見えましてもですたい、心の中でもう食べてもらえば、本当に片付いてからと、こう思いよる。ですから例えばこれは、損ならです、ね、ですからそういうような場合なんですよ。私が言いよるのは。「お父さんご飯ですよ」と、「今日は俺は食べまい」「そげん言わんで食べといて下さい、せからしか何べんもせなならんけん」というのではなくてです、又、思うのではなくてです、自分の思いを捨てとくんですよ。
 ご飯を食べて下さいと、口では言いよるけれども、心ではどうでも良いという気になる。もうそれは後は楽な事楽な事ばさらかです。これはもう。なるほどそれは良いごとかもしれません。又、晩にお汁を温めてやったり、お粥さん温めてやったりせんなりませんから、ね。けれども、そうせんならん時には、そうせんならんことば、一つしようと思いなさって。ね、そこには必ず神様がですね、よう、成程身近に働いておって下さるんだなあとういですね、体験が必ず生まれるですね、
 教祖の神様は嘘を仰っておられるとは思われない、我情を捨てた姿なんですから。子供がああしてくれと言うばってん、言う事聞かんけんで、もう自分でだけグーとこらえとる、というようなことじゃいかんです。もうこうしてくれと良いばってんと言う、その思いを捨てとく事なんです。皆さん、この事は、本当に、あの行じられたら、素晴らしい体験が生まれますよ、あっ家のお社は空になってござると思うくらいに、ここに神様が来て働いて下さいますよ。間違いないです。
 そこをですいわゆる成程、神徳の中に生かされておるんだなあ、という事が解るんですそういう教えを行じなければですね、神様が私共の周囲にはですもう身動き出来んくらいに、神様がおんなさっても、働いておってござっても、それを感じとる事が出来んです。ね、それを感じとらせて頂いた時にです、初めて成程神様が私の中に私の周囲に、私の身動きの出来んぐらいに神様が私の為に、働いておって下さるんだなあという実感。それを神徳の中に生かされてあるという喜びと私は思うんです。ね。
 そういう喜びにです。あれやらこれやら、願わん事にどんどん、おかげになってくることには勿論です。ね。私はここんところを、皆さんがね。私は私がいつも皆さんに、私はそれは厳しくも申します。何故って、ここでおかげを頂きたいと願うとるもんですから。ならまず私が頂いとるようなおかげを頂かんな、というわけ。それで、そんなら親先生の言いなさるけん、ああせにゃいけんよ。
 こう言う様なあり方にならないけんよというてそれをお伝えする。ですから皆さんもおかげを頂きたいならですそこを認めなきゃいけん。そこを頂かなければいけないと。どんなもんでしょう理屈の上でです。成程わが身は神徳の中に生かされてあるとか、生かされて生かされて生きておるんだと言った様な事が、どんなに講釈なさった所でですよ、有り難いというものが湧かなかったら、それはなぁんにもならんでしょうが。ね。
 もうそれはですね四六時中、一日中それを感じるんですね。自分の我情を捨てておく。その上に、我欲を捨ててごらんなさい。もっともっと楽になります。いよいよ大神徳の中に生かされてあるです、本当に多くの人に、この人のためにです、世界中の皆動いておるというようなおかげを頂きます。ね。天地だって、そうなんですよ。皆さん、一人一人がです。天地の親神様が私一人の為に、この方一人の為に。
 この方久保山茂、一人の為にこの方(?)一人の為に、天地の親神様が働いてござると思われる様なおかげをここ、身近に頂かせてもろうてです、初めて有難いなあ信心ちゃ有り難いなあ、その有り難いな有り難いながです、夜の御祈念に例えば、ご神前に額ずかせて頂く時ですね。お礼を申し上げさせて頂かなければおられんのであり、お礼を申させて頂きよったら、もう切りがないほどに有り難うならさせて頂いて、ね、
 いわゆる、次のおかげの頂けれる原動力というようなものがです、いわゆるおかげの受け物がそうして出来てくるわけなんです。でもですね、私はあのどんなに慎みとか例えば、先ほども家内の話をいたしましたがです、ね、いわばその、天職と言われる人たちはねその、自分の腹の中にグッともってといったような意味の事をいうてもう、そんなもんじゃないです。信心とはそれを求める事なんです。いつも心は空なのです。
 あああってほしい、こうあると良かばってんという、思いを捨ててしまうこと、それでもやっぱ痛ければ痒ければです、もう子供達の難儀な姿というものを親として、見ていればですたい、ほんに助かってくれればと思うのが親心ですから、そのことはお取次ぎを頂いてからお願いをする神様にお願いをする。痛ければ痛い痒ければ痒いようにです。神様にお願いはするけれどもです、それから先はもう貴方にお任せする。
 お任せしているところにです。痛いのが治ったならいよいよ有り難い。ね、お願いをしておったから、その、タイミングをです、子供なら子供達にもです、お繰り合わせを頂けたという事になってくるときです、神様にいよいよ身近に感じることが出来るでしょうが。私はね、あの、お道の信心は、神様をそうして身近に、ね。働いてござることをこの実感させて頂けれる生活をお道の信心生活だとこう思うんです。ね。
 その為には、そういうおかげの頂けれる道がある。それは例えば、私がただ今申しましたようなです、ね。教えを本気で行じさして頂く事だということなんです。ね。そこに、神様が身近に感じることが出けるのですね。自分の、意のままになるという事もおかげなんだけれども、自分の意のままにならないということもおかげである。というような事が段々分かってまいります時です、ね。
 思うようにならない事がおかげであるとこう。もうそこにお礼が申し上げられるような境地が段々開けてまいりましたらです、私共の前にはなぁにも、心配もなからなければ、苦労も難儀もないということ、一切が神様のお恵みであり、一切が神様のお働きであるということを実感させて頂くようなおかげなんですね。先日からここの語造営のことについての、お土地の県からの許可書が、なかなか参りませんのです、ね。ですから、土盛りもそれがなからなければ出来ないわけなんです。
 そしたら二・三日前でした。あの二十日の日におかげを頂くごと言われとったから、あのう、神様にその事をお礼、お届けさして頂いておった。そしたら、やっぱり今日二十日に許可書が参りました。話を聞いてみると十八日に、全部事務所に来とったらしいんですね。けどそのなんやかんやでその、下積みになっとったなんかでやはり、結局来たのは今日だった。神様が私の言葉通りに動いてござることが分かるでしょう。
 いわゆる私を中心働きござるなという事が分かるでしょうが。ね。その様にですね、神様が私を中心に働いて下さっておるんだなあと、まあ是は私だけじゃない皆さん一人一人の上にですたい。私を中心に天地の親神様が働いてござるんだなと言う様なです、実感さしてもらう。そういう時が我が身を神徳の中に生かされておる喜びをです、心に感じておる時にです。そういう喜びを感じ続けていく生活が私は信心生活だとこう思うですね。
   おかげを頂かねばなりません。